身体に痛みや辛さを抱えながらも、表面上はごく普通に生活していたわけですが
内面にはいつも苦しさや不安を抱えていたように思います。
一つの要因は父です。
父は若いころから「酒ばっかり飲んで働かない」と有名だったようで、仕事が長続きしたことがありませんでした。
「朝なのに布団をかぶって起きない父に仕事に行くつもりがないのか聞いている母」
この光景をよく覚えています。
お金のやりくりに苦労している母を見るのが、子供心に本当に辛かった。
子供だから働けないし、私にできることが思いつきませんでした。
お母さんのために何かできないか思案する中で閃いたのは
「お母さんにお金をあげられないから、お母さんが苦しい時はわたしも一緒に苦しくなろう!」でした。
どうしてか、そうすることで私の責任を果たしているような、少しでも許されるような気がしていました。
子供って、大人が思う以上にいろんなことを感じていますね。
父は赤ちゃんの時に養子に出された自分のことを、ずっと否定して生きていたようです。
その結果、自分の息子(私の弟)のことが何かと癇に障り、虐めたり怒ったりするようになりました。
辛うじて手を挙げることはありませんでしたが、この精神的虐待は受けた本人だけではなく、家族全体を苦しめました。
また別の要因として、自分を厳しく律するべきだとの思い込みがありました。
私の母は、私が小さいころにクリスチャンになりました。
私たちきょうだいも、聖書の教えを受けて育ちました。
『神様はいつでも私たちのことを見ておられて、喜ばれたり悲しまれたりする』
『神様は私たちの心の中をぜんぶ見ておられる』
幼い私にとっては、「私の中に悪い感情があったら、神様に嫌われる」と変換され
緊張の原因となりました。
また、当然沸き起こってくる自然な感情を否定することにもつながりました。
たとえお友達に意地悪をされても、相手を嫌ったり憎んだりするなんてダメなこと。
そんな思い込みを持った小さな子供のわたしは、神様がいつもわたしにがっかりしているように思えてなりませんでした。
そして、もう一つの要因は母の理想の子供になりたいという思いでした。
小学校1年生のころだったでしょうか、こどもの名前の由来を母やが手紙にするという宿題がありました。
わたしの名前は「自己犠牲と辛抱のできる女性になってほしい」との母の願いから、
「華岡青洲の妻」加恵さんのお名前をつけたということでした。
夫や医学の発展のために盲目なることも厭わず自らを麻酔の人体実験として差し出した、自分を無にすることのできる女性。
わたしは・・・檻に閉じ込められたような気持ちになったことを覚えています。
いつでも進んで自分を差し出すことを、辛抱・忍耐を母が望んでいると強烈に感じました。